ちょっと違う風景
町の珍しいものとかを紹介します。主に社寺とお花。
文治元年二月源義経平家追討の為一の谷にゆかんとしてこの地をすぎしに霊光あり義経宇佐八幡宮の御顕現なりとし人皇八十二代後鳥羽天皇に奏上す、天皇霊光ありし地に宮を経営し給ひ奉祀し大宮八幡宮と称し応神天皇を祀れり攝津志に南島神社と記せるは当社なり。後鳥羽天皇の勅願を蔵めたり、往時は社殿宏壮境内廣くして南方1.1キロメートル余なる京街道に一の鳥居を存し其の間は当社の馬場先にして両側に松並木ありしも後漸次荒廃にまかせられたる為めけ境内は縮小し社殿は朽壊して舊観を失ふ、天明寛政の交に至り祠官廣淵肥後守拮据経営して漸く社観を復し朝廷より従5位下を授けられる。又豊臣秀吉公社殿を造営し大阪城の鬼門にあたるを以って祈祷を命ぜられ正、五、九月の玉串の納むるを例とせり。
明治五年村社に列し明治四十年九月二十一日産土神社外六社を合祀し明治四十五年四月二十二日大宮神社と改称せられて今日に至る。
当神社の創立は、天智天皇の頃、現在地に宮寺があり、住民の藤原氏一族が祖神の春日大神を産土として奉祀していた。しかるに、足利時代に至り、今の守口市佐太本山来迎寺の関山の誠阿上人が、賊徒の手による火厄の災難から一命を助けられたことがあり、上人は報恩のため、自分の尊崇する男山八幡宮の分霊をこの神社に奉斎したのが本神社の八幡神である。その後、村民が、悪疫退散の祈祷を誠阿上人にお願いし、霊験があったので、従来の春日大神を従神とし、八幡大神を主神として今日に到っている。尚、前記除難の縁により、当神社を「やけずの宮」ともいい境内に不焼稲荷社を奉祀する。
当神社の創建された年代は明らかではありませんが、室町時代の文安年間(1444年~1448年)に、すでにこの地に赤川寺(せきせんじ)という天台宗の巨刹(大寺)がありました[赤川村の由来]。その境内に山王社(さんのうしゃ)または、山王権現と呼ばれた神社があり、御祭神は、比叡山の日吉大社の御分霊でありました。
赤川寺は、大坂夏の陣のとき戦火に炎上し、その後廃寺となりましたが、神社は類焼することなく、近郷の崇敬厚く氏神様として代々栄えてきました。
明治三十二年淀川拡張工事のため境内地の北部分が接収され、本殿を約200m南へお遷ししたのが現在の場所です。
山王社が「日吉神社」(正読「ヒエジンジャ」)と改称されたのは、明治元年です。
日吉行者堂
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