ちょっと違う風景
町の珍しいものとかを紹介します。主に社寺とお花。
阿部野神社は明治十五年創立の新しい神社です。
別格官幣社
北畠親房公は後醍醐天皇の信任が厚く、「後の三房」の一人です。御醍醐天皇の吉野御遷幸で、吉野朝の中心となって伊勢や常陸から京都回復の計画を立てられていた。
常陸国の小田原城で「神皇正統記」を著す。吉野へ帰り、後村上天皇を助け、三后に準じられた。
顕家公は、親房公の長男で、陸奥守として奥羽を平定し、足利尊氏を京都より敗走させたが、21才の若さで戦死した。
当神社の縁起絵巻「摂州東成郡阿倍権現縁記」によれば、当社は仁徳天皇によって創建され、 平安時代の初期、天長3年(826)弘法大師空海が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷を修して功なり、疫病を治癒する寺という意味の「痾免寺」(通阿倍)の勅額を朝廷より賜ったとされています。
阿倍野は古代の豪族「安倍氏」の居住した土地で、奈良時代には安倍氏の氏寺として阿部寺が存在しました。この寺は口碑に「阿部寺千軒坊」と残される程の大寺であったと伝えられています。
ところが平安時代になると、安倍氏が朝廷での勢力を失い、氏寺も四天王寺に併合される事になった。
残された安倍氏の氏神社でしたが、当時熊野信仰が興り、途中の街道に熊野九十九王子と呼ばれた沢山の王子社が出来ると、当社の所在地が四天王寺と住吉大社との丁度中間に存在し、王子社の立地に相応しいお宮でしたので、当社の西門筋に熊野街道が整備され、熊野王子社の一つとなりました。
そこで当社は阿倍野に鎮座しますので、阿倍野王子と呼ばれました。王子社の中には、熊野信仰の衰退と共に退転したお宮も有りますが、幸い当社は中世以降、「阿倍野村の氏神」として信仰され、大阪府下では唯一の旧地現存の王子社として現在に至っております。