地域神社リスト
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天満宮 七福神
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3.奈良県 奈良市 大和郡山市 斑鳩町 安堵町
4.兵庫県 尼崎市 伊丹市 西宮市 宝塚市 川西市 芦屋市
神戸市 東灘区 灘区 中央区 兵庫区
5.滋賀県 大津市
6.徳島県 徳島市
若宮八幡神宮
【由緒】
当地域の土地柄が寝屋川(古くは大和川)鯰江川の二川、また古街道東西に貫通し、低地であり地味砂土に富み、農耕に適し、水運の便多く、浪速における庶民生業の中心地として繁栄して参りました。その関係上浪速に都を定められ、御製「高殿にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎはいにけり」に示された。仁徳天皇の御遺徳をしのび、村民こぞって神祠を勧請御創建せしに始まると伝えられて居ります。「摂津名所図会」によれば、蒲生とは名産に蒲穂あり、色美しく、尺長く、良質のものが出来たと記されて居ります。蒲生の地名もここから出たものでしょう、「応仁記」によれば人皇百三代後土御門天皇の御宇、文明十四年八月(一四八二)畠山政長、畠山義就を河内守口城に攻めたる時、村民の崇敬篤く、神域広大なりし当地の神祠に、武運成就を祈願したと伝えられ「難波戦記」に依れば、大坂夏の陣(鴫野、京橋口の戦い)に於いて、佐竹義宣、当地境内に本陣を構え、戦勝を祈願したとあり・・・。その時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒され篝火の料に用いられぬ惜むべき事なり。戦後佐竹家より矢を献納して贖罪の祈願をなす、其の矢は伝わりて明治に至りしも十八年の洪水に社と共に流失せり、楠の根幹は其の後芽を吹き出し三百年間三本の大樹と成長し明治まで繁茂して樹下は村童の遊び場なりしか二十年頃樹勢頓に衰え三本共終に枯死せるを以て其の後に絵馬堂を建設せり、根幹は其の絵馬堂一面の大きさなりと云えば戦時伐木せし楠の如何に大なるものなりしかを知るべし、従って樹齢も他の例に推算せば、千数百年前のものなることを認むべし」昭和十年の記録・・・。以上の如く蒲生郷一帯の守護神として、(勝運、商売繁昌、五穀豊穣、安産、家内安全、厄除を祈願し)世に、蒲生の西向き八幡さまと、絶大なる信仰をあつめて参りましたことを散見されてあります。昭和十年社殿修宮の大事業、並びに昭和四十五年御鎮座千五百年 記念参集殿御造営事業も竣工せしにより、佐竹義宣の本陣跡を表記として碑を立つるものなり。
| 鳥居と額束 | |
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| 本社と大坂夏の陣の石碑 | |
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| 鳥居後の狛犬 | |
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| 末社 稲荷社 祖霊社 乾大神 |
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| 手水舎 「えびす様」がおられる |
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| 「撫で牛」とある。中に牛が居る。 菅原公はどこに? | |
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皇大神社
【由緒】
当宮は平安朝時代の末期、今福村の開発された時にともに創祀された。今福及鶴見関目古市の一部の氏神である。当宮の所蔵の棟札に文禄三年木下興右衛門様検地境内東西二十六間南北十七間面積一反四畝四歩を除地とある。又今福開発百姓宮座として年積もりたる者六人が六老と云い神社の掃除一式をとり行っていると記載されている。今福村の初期は難波戦記に書かれている今福堤である。旧大和川の北岸で東西に長く今俗に元町と云う。その元町に連なる小丘が今の境内地である。当宮北西100メートルばかりはなれて三郷樋がある。大正六年この樋が改修されたときに大独木船と五輪塔(慶長十七年四月12日新物故霊位松栄童女)在銘のものが樋の底から発掘されている。今福村は古い集落であったことが判る。境内に今は枯死して無いが榎木の老大樹があった。樹齢千年以前のものなりと、大日本樹名木誌、本多林学博士著に収録されている。又この地一帯は広く榎並荘と称して、当宮がその氏神と祭祀され、伊勢神宮の神税を納める斎蔵がこの小丘にあった。と古老等が言い伝えている。
所蔵の棟札が六枚ある。その四枚に三十番神但し天照皇大神、両側に春日大神八幡宮と三行に記載されている。三十番神とは日蓮宗の守護神である。文禄三年、宝永四年、享保十一年、寛保二年、延享四年、天保十三年に夫々修改築を成している。今の社殿は昭和七年の営繕なり、境内末社に小女郎稲荷社がある。大和の源九郎稲荷、和泉の葛葉稲荷、と共にこの河内の小女郎稲荷が近畿の三稲荷の一つとして特に沢山の信者がある。
明治五年皇大神宮と称して村社に列せられ、明治四十四年十一月十七日会計指定社となり又、大正元年十一月7日神饌幣帛供進社となり。終戦後昭和二十一年二月三日国家神道廃止に依り、同年六月十六日宗教法人皇大神宮として届出を為す。
| 鳥居と社名碑 | |
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| 本社 各部彫刻がすばらしい | |
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| 拝殿前の新しい狛犬 | |
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![]() | 末社 |
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関目神社
【由緒】
当地の氏神様であります関目神社は天正八年豊臣秀吉が大阪城築城の際、防備の1策として関目より古市森小路の間十余町の道路を特に屈折させて(俗に七曲がりという)敵兵の進軍を俯瞰し、その軍容兵数を察知するのに便利なようにした。これと同時に北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り、崇敬すると共に、浪速の鬼門に当たるので、鬼門鎮護の神として、毘沙門天王を勧請して小祠を建立したことに始まる。
| 鳥居と関目発祥の石碑 | |
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| 本社と社殿 左側に毘沙門天がみえる | |
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| 狛犬 | |
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